江島杉山神社 御由緒
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御祭神
御祭神
御由緒
 馬喰町・横山町・東日本橋の鎮守初音森神社は元弘2年(1332)藤原大納言師賢公が東国に配流の時、初音の森に参篭し、その草庵に稲荷大明神を勧請し白峯宮と共に奉斎したのが創祀であるといわれる。初音之里に住んでいた源兵衛の幼児が重傷で命も危なかった時、母が初音森の神祠に7日の願をかけた。満願の夜一人の女性が現れて病児に乳を与える夢を見た母が目を覚ますと、病児は女性の後を追い嬉々として声を上げ、病気は忽ち良くなったと人々が伝え聞き、願をかけて皆御利益を得た。そして里人の信仰するところとなり、氏神と敬われたと伝えられる。初音森は「江戸七森」に数えられており、多くの御神徳により文明3年(1471)大田道灌公の寄進で社殿が建立され、田部氏が神主となって奉仕した。その頃は「美加度(ミカド)二社稲荷」等と称されたという。
 徳川幕府入府後、この所は浅草見附門建設にあたり境内地の半分が削られているが、更に明暦3年(1657)の大火後、馬喰町郡代屋敷建設のため当地も公儀御用地となり、当時の下総国葛飾郡南本庄、現在の墨田区千歳へ万治2年(1659)3月替地拝領遷宮した。この時未だ両国橋は架せられておらず、舟で千歳一ツ目まで氏子中を以て神輿引きをしたという。
 明治に至り遷宮後といえども営繕に例祭に氏子中の奉仕は少しも変わることなく戦中戦後を経て各町役員有志の協力を得て昭和25年4月、300年振りに旧跡の一部である現在の東日本橋2丁目に御遷座し今日に及ぶ。日本一の繊維問屋街に鎮座する商売繁盛の神、地域の産土神として信仰を集めている。
 内大臣藤原師信の子。清華家の一つ花山院家にて正安3年(1301)に生まれる。出世が早く嘉暦4年(1329)には大納言に進むなど、若くして後醍醐天皇に重用され側近として仕えた。
 元弘元年(1331)天皇の笠置遷幸の際、延暦寺の衆徒を味方につけるため後醍醐天皇に扮し身代わりとなり比叡山に入るが失敗。敗走中に捕えられて出家。法名を素貞という。翌年の元弘2年(1332)下総国に配流となり、千葉介貞胤に預けられる。
 同年10月配所にて32歳で病死。後醍醐天皇は哀惜し太政大臣と追贈し、文貞公を謚した。明治時代に至り配所先であった千葉県香取郡小御門村に小御門神社が創祀され、その御霊を祀る。師賢公は歌人として勅撰集、私撰集に多く入集し元弘の乱への感慨を詠んだ歌も多く、その中には隅田川を詠んだものもある。
「こと問いていささはこゝこにすみ田川 鳥の名聞くも都なりけり」(新葉集)
 都を元弘2年5月に出て下総国に向かう道中、川のほとりで詠まれた歌で「いささは」は「いざさらば」の意。都鳥の名を聞くにつけても都が一層懐かしく思えたのだろうか。隅田川を越えれば配流地の下総国に足を踏み入れることになる。この時初音の森にて奉祭し(当時はまだ初音の森の中にある祠か)後醍醐天皇の形見を残していたという口伝があり、社名が当初「ミカド二社いなり」であったのも、その事が関係していると思われる。
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